朔間遼の夜 第5話「呼び名」

小説『顔のない探偵へ』」

【連作ミステリー『顔のない探偵へ』スピンオフ|朔間遼の夜】第5話

※このシリーズは、顔を持たないSNS探偵を陰で支える青年・朔間遼を主人公にした短編連作です。本編を未読でもお楽しみいただけます。


その晩の依頼は、これまでで一番、骨が折れた。

探偵さんが送ってきたのは、二十年以上前の、ある町内会の集合写真だった。「この中の一人を探している。名前も、今どこにいるかも分からない。手がかりは、この写真だけだ」。

遼は、夜通しかけて取り組んだ。一人ひとりの顔を補正し、背景の看板や電柱の住所表示を洗い出し、写っている商店の名前から地域を絞り込む。当時のその町の古い地図と照らし合わせ、写真の撮影場所を特定する。そこから、町内会の記録が残っていそうな場所のあたりをつけ、探偵さんに次の調査先を提案した。

空が白む頃、探偵さんから返信が来た。

「あなたのおかげで、たどり着けそうだ。正直、自分一人なら、とっくに諦めていた」

それから、少し間があって、もう一通。

「あなたは、いったい何者なんですか」

遼は、その問いの前で、しばらく動けなかった。

何者か。自分でも、よく分からない。三年前に会社を辞め、声を捨て、誰とも関わらずに生きてきた男。かつて、言葉で人を焼いたことのある男。何者でもない。何者にもなれなかった男だ。

でも、と遼は思った。

この人にとっての自分は、たぶん、「何者でもない男」ではない。役に立つ誰か。たどり着くのを助ける誰か。諦めかけたものを、もう一歩前へ進めてやれる誰か。三年ぶりに、遼は、誰かにとっての「何か」になっていた。

遼は、返信を打った。打っては消し、打っては消した。「ただのデータ屋です」では、そっけなさすぎる。「あなたを手伝いたいだけです」では、踏み込みすぎな気がした。

最後に、遼は、こう打った。

「弟子にしてください、師匠」

送信してから、顔が熱くなった。何を書いているんだ、と思った。冗談めかしすぎたか。気持ち悪いと思われたか。でも——それは、遼の本心に、一番近い言葉だった。この人から学びたい。この人の役に立ち続けたい。この人とのつながりを、失いたくない。それを、軽口の形でしか、まだ言えなかった。

返信は、すぐに来た。

「では、師匠と呼ばれるのは、こそばゆいが。これからも、よろしく頼みます」

遼は、画面を見て、ふっと笑った。声に出して、笑った。

自分の笑い声を聞いたのは、いつ以来だろう。誰もいない部屋で、遼は、確かに笑っていた。

その日の夜、遼はコンビニへ向かった。

足取りが、いつもより軽かった。徹夜明けのはずなのに、不思議と眠くなかった。胸の奥の、ふつふつとした熱が、まだ冷めずに残っていた。

レジには、明日香がいた。

「あ」と、明日香が小さく声を上げた。「今日は、早いんですね。いつもより」

覚えられている。今日も。遼の来る時間まで。

「……ちょっと、いいことが、あって」

言ってから、遼は自分の言葉に驚いた。誰かに、自分の「いいこと」を話そうとしている。三年間、誰にも何も話さずに生きてきたのに。

「いいこと?」明日香が、弁当を温めながら、首をかしげた。「なんですか?」

遼は、口ごもった。探偵さんのことを、どう説明すればいいか分からなかった。顔も名前も知らない、ネットの向こうの誰か。その人に「師匠」と呼ぶことを許された——なんて、話したところで、伝わるはずもない。

「……人に、頼られて。役に立てた、というか」

結局、それだけ言った。明日香は、少し意外そうな顔をして、それから、笑った。

「いいですね、それ。なんか、いいです」

その「いい」が、遼の胸に、まっすぐ落ちてきた。

明日香が、温まった弁当を、カウンター越しに差し出す。受け取るとき、ほんの一瞬、指先が触れた。彼女の指は、温かかった。レジ袋の熱ではない、人の、体温だった。

遼は、その一瞬の温度を、家まで持ち帰った。

触れたい、と、また思った。でも今夜のそれは、飢えではなかった。もっと穏やかな、もっと先のある願いだった。いつか、レジ越しではない場所で、この人と話してみたい。指先だけではなく、もっとちゃんと。そう思えること自体が、遼には、生まれて初めてのことのように感じられた。

部屋に戻ると、スマートフォンが光っていた。

師匠からだった。「先ほどの件、無事に会えそうだ。あなたのおかげだ。本当に」。

遼は、返信を打つ。「よかったです、師匠」。

「師匠」と打つのが、もう、こそばゆくなかった。

窓の外が、また白み始めている。同じ夜明けを、遼は、もう何度も見てきた。声を出さずに、息をひそめて迎えた、いくつもの朝。

でも、今朝の夜明けは、違った。

ネットの向こうに、師匠がいる。コンビニのレジに、明日香がいる。二人は、互いに何も知らない。会うこともない。それでも、その二つの灯りが、遼の冷たかった部屋を、確かに照らしていた。

遼は、天井の電気のスイッチに、手を伸ばした。

何ヶ月も、何年も、つけていなかった電気。つければ、散らかった部屋が見えてしまう。今までは、それが怖かった。

でも、今朝は——見てもいい気がした。

スイッチを入れる。部屋が、白い光に満ちる。コンビニ袋。空き缶。読みかけの本。散らかった、けれど、確かに自分が生きてきた部屋。

遼は、それを、まっすぐに見た。

そして、ゴミ袋を一枚、手に取った。

(第五話 了)


▶ 前の話を読む:朔間遼の夜 第四話「あけぼの」


この物語は連作ミステリー『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』のスピンオフです。

朔間遼が「師匠」と呼ぶ、顔を持たないSNS探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく9つの謎と、その先に待つ真実は——本編でどうぞ。

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