【連作ミステリー『顔のない探偵へ』スピンオフ|朔間遼の夜】第4話
※このシリーズは、顔を持たないSNS探偵を陰で支える青年・朔間遼を主人公にした短編連作です。本編を未読でもお楽しみいただけます。
あれから、何度か手を借りた、と男は言った。
最初の「純喫茶 あけぼの」の一件から、濃紺の男——遼は心の中で、まだ名前のないその人を「探偵さん」と呼んでいた——は、ぽつぽつと連絡をよこすようになった。頻繁ではない。数日に一度。困ったときだけ。
「読めない手書きの住所がある」
「この二枚の写真が同じ場所か知りたい」
「古い電話番号から、当時の店を調べられるか」
どれも、遼にとっては難しくない。仕事で培った画像処理や、地味なデータ照合の技術。会社にいた頃は誰にも評価されなかった、地味で、目立たない作業。それが、画面の向こうの誰かの「探し物」を、一歩ずつ前に進めていく。
遼は、依頼が来るたびに、少しだけ背筋を伸ばすようになった。
返信に、前ほど時間がかからなくなった。指のこわばりが、回を追うごとに、ほどけていく。「できました」「これだと思います」「念のため、別の角度からも調べました」。気づけば、頼まれてもいないことまで先回りして調べている自分がいた。
探偵さんは、いつも短く礼を言う。
「助かる」「さすがだ」「あなたがいてくれて、よかった」。
その「よかった」を、遼は何度も読み返した。画面を伏せる癖は、もう、ほとんど出なくなっていた。
昼すぎに起きて、夜中に働く生活は変わらない。母からの着信も、相変わらず伏せている。三十一件の留守電は、三十四件に増えた。それでも、遼の夜には、前にはなかった音があった。通知の音だ。探偵さんからの。それが鳴ると、遼は、自分でも意外なほど、ほっとした。
日付が変わってから、遼はコンビニへ行った。
レジには、あの店員がいた。前髪をピンで留めた、鼻歌の彼女。何度か通ううちに、遼は彼女の名前を、名札で知っていた。「明日香」。
弁当を温めてもらう、いつもの三十秒。
「これ、温めますね」
「……はい」
遼の声は、まだ小さい。でも、前のように、目を伏せたままではなかった。明日香が弁当を電子レンジに入れる横顔を、遼は、見るともなく見ていた。彼女がふと、顔を上げる。目が合う。
「いつも、この時間ですよね」
明日香が、言った。
遼の心臓が、跳ねた。話しかけられた。客としてではなく——いや、客としてかもしれないけれど、でも、「いつも」と言われた。覚えられていた。声が、喉でつかえる。何か言わなければ。何か。
「……夜のほうが、落ち着くので」
やっと、それだけ言えた。明日香は、ふっと笑った。
「わかります。私も、夜のほうが好きです」
たったそれだけの、何でもない会話だった。弁当が温まる音がして、会話は終わった。「ありがとうございました」。いつもの言葉。でも今夜のそれは、遼に向けられていた。誰でもいい誰かに、ではなく。
帰り道、遼は、温かい弁当を抱えて歩いた。
ビニール袋越しに、弁当の熱が、手のひらに伝わってくる。たったそれだけのことが、やけに、生々しかった。誰かに触れたい、と遼は思った。明日香の、レジ越しの手に。鼻歌を歌う、あの無防備な喉に。欲しい、と素直に思えた自分に、少し驚いた。三年間、その欲求ごと、ミュートしてきたはずだった。
でも今夜、その熱は、いやな熱ではなかった。
部屋に戻ると、スマートフォンが光っていた。
探偵さんからだった。「夜分にすみません。また一つ、頼みたいことが」。
遼は、弁当を机に置いて、すぐに返信した。「大丈夫です。何ですか」。
画面の向こうに、顔も名前も知らない男がいる。コンビニのレジに、名前だけ知っている女がいる。二人は、互いにまったく関係がない。同じ町にいるのかどうかも分からない。遼の人生の、まったく別々の場所で、別々に光っている、二つの小さな灯り。
なのに、と遼は思う。
その二つが、今、同じ一つの夜の中で、遼を温めている。
探偵さんの「あなたがいてくれてよかった」。明日香の「私も、夜のほうが好きです」。どちらも、たいした言葉じゃない。社交辞令かもしれない。深い意味なんて、ないのかもしれない。
それでも、遼の胸の奥で、何かが、ふつふつと音を立てていた。
ずっと、冷たい部屋で、息をひそめて生きてきた。誰も傷つけないように。誰にも触れないように。それが正しいことだと、自分に言い聞かせて。
でも、人と関わるというのは、こういうことだったのか、と遼は今さら思う。
誰かの役に立って、「よかった」と言われること。誰かに「いつも」と覚えられて、笑い返されること。それは、こんなにも、体を温めるものだったのか。
遼は、探偵さんの依頼を開いた。今夜は、少し難しそうな案件だった。古い名簿の、かすれた文字の照合。遼は、思わず、口元がゆるむのを感じた。やってやろう、と思った。この人の探し物を、また一歩、前に進めてやろう。
モニターの青い光が、部屋を照らしている。
その光は、もう、冷たくなかった。
遼は、温かい弁当の封を、後回しにした。先に、仕事だ。誰かのための、仕事だ。キーボードに指を置く。今夜の指は、もう、震えていなかった。
(第四話 了)
▶ 前の話を読む:朔間遼の夜 第三話「発信源」
この物語は連作ミステリー『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』のスピンオフです。
朔間遼が「師匠」と呼ぶ、顔を持たないSNS探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく9つの謎と、その先に待つ真実は——本編でどうぞ。


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