朔間遼の夜 第6話「顔」(最終話)

小説『顔のない探偵へ』」

【連作ミステリー『顔のない探偵へ』スピンオフ|朔間遼の夜】最終話

※このシリーズは、顔を持たないSNS探偵を陰で支える青年・朔間遼を主人公にした短編連作です。本編を未読でもお楽しみいただけます。


師匠と呼ぶようになってから、季節が一つ、変わった。

朔間遼の夜は、少しずつ、形を変えていった。相変わらず昼すぎに起きて、夜中に働く。それは変わらない。でも、天井の電気は、もう毎晩つけている。床のコンビニ袋は、なくなった。読みかけだった本を、最後まで読んだ。母には、まだ電話をかけられていない。けれど、三十四件で止まっていた留守電を、一件だけ、聞いた。「元気にしてるの」という、それだけの、短い声だった。遼は、泣きそうになって、やめた。まだ、かけ直せない。でも、いつか、と思えるようになった。それは、大きな違いだった。

師匠との仕事は、続いていた。

依頼のたびに、遼は技術を磨いた。画像の解析。データの照合。断片から全体を組み立てる、地道な作業。師匠は、遼の腕を、心底頼りにしているようだった。「あなたがいなければ、この仕事は続けられない」。そう言われるたびに、遼の胸は、静かに膨らんだ。

ある夜、師匠から、めずらしく個人的な連絡が来た。

「一度、声を聞いてみたい。もしよければ、通話でも」

遼は、その一行を、長いこと見ていた。

声。三年間、ほとんど使ってこなかった、自分の声。錆びついて、他人のもののように聞こえる、あの声。それを、師匠に、聞かせる。顔は、まだいい。アイコンは、ずっとイラストのままでいい。でも、声なら——声なら、いつか。

「まだ、心の準備が」と、遼は打ちかけて、消した。

代わりに、こう打った。「いつか、必ず。でも、もう少しだけ、待ってください」。

師匠の返信は、いつものように短かった。

「いくらでも待ちます。あなたのペースで」

その一言に、遼は、また救われた。この人は、いつも、待ってくれる。急かさない。踏み込みすぎない。それでいて、ちゃんと、そこにいてくれる。遼が三年間、誰にもできなかった「つながる」ということを、この人は、あたりまえのように、静かに差し出してくれる。

いったい、どんな人なんだろう、と遼は思う。

顔も知らない。歳も、正確には知らない。ただ、文章の端々から滲むのは、不器用なほどの誠実さと、他人の痛みへの、異様なほどの敏感さ。自分のことは、ほとんど語らない。いつも、誰かの探し物の話ばかり。

遼は、ふと思う。この人自身は、何を探しているんだろう。

誰かのなくし物を、こんなにも一生懸命に探すこの人は。自分の「なくしたもの」からは、目を逸らしてはいないだろうか。……いや、それは、たぶん、踏み込みすぎだ。遼は、その問いを、そっとしまった。いつか、声を聞ける日が来たら。そのときに、聞いてみればいい。

その夜、遼はコンビニへ向かった。

レジには、明日香がいた。

「あ、いらっしゃい」。もう、すっかり見慣れた笑顔。最近は、弁当を温めてもらう三十秒のあいだに、二言、三言、言葉を交わすようになっていた。天気のこと。新商品のこと。たわいもないこと。

その日、明日香は、少しためらってから、言った。

「あの、朔間さん……今度、お店じゃないところで、お茶でも、どうですか」

遼の心臓が、止まりそうになった。名前を、呼ばれた。名札でもないのに——いつか、レシートの名前でも見たのだろうか。それに、お茶。店じゃないところで。それはつまり。

三年前の遼なら、逃げていた。きっと、目を逸らして、「いえ」と言って、二度とその店に行かなかった。人と近づくことは、傷つけること。傷つくこと。だから、ミュートする。それが、遼の生き方だった。

でも、今の遼は。

「……はい」と、遼は言った。声が、震えていた。「ぜひ」。

明日香が、ぱっと、顔を明るくした。その笑顔を、遼は、まっすぐに見た。目を、逸らさなかった。

部屋に戻って、遼は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。

お茶に誘われた。人に。生身の、誰かに。心臓が、まだ、どきどきしている。でも、それは、あの「人を焼く熱」とは、まったく違う熱だった。もっと、あたたかくて、もっと、こわくて、もっと、生きている感じのする熱。

遼は、スマートフォンを開いた。

師匠に、報告したかった。誰かに、この気持ちを、話したかった。三年間、誰にも話さなかった男が、今、真っ先に「話したい」と思う相手が、いる。

「師匠。俺、たぶん、少し、変われた気がします」

打ってから、遼は、照れくさくなって、付け足した。

「師匠のおかげです。ありがとうございました」

しばらくして、返信が来た。

「変わったのは、あなた自身の力です。私は、ただ、あなたに探し物を頼んだだけだ」

それから、もう一通。

「いつか、会いましょう。声を聞かせてください。あなたの顔を、見せてください。……私の顔も、そのときに」

顔。

遼は、その言葉を、じっと見た。

顔を隠して、声を伏せて、名前も明かさず、それでも、確かにつながってきた二人。顔のない探偵と、顔のない弟子。いつか、その「顔」を、見せ合う日が来る。遼には、その日が、少しも怖くなかった。むしろ、待ち遠しかった。

窓の外が、白み始めている。

いつもの夜明け。でも、もう、息をひそめて迎える朝では、なかった。

遼は、天井の電気を、消した。

もう、闇が、怖くなかったからだ。つけっぱなしにして、闇を締め出す必要は、もう、ない。暗くなった部屋で、遼は、モニターの青い光を見た。その光は、ずっと、遼のそばにあった。孤独の光でもあり、つながりの光でもあった、青い光。

明日、明日香と、お茶を飲む。

いつか、師匠と、顔を合わせる。

母に、電話をかける日も、きっと、来る。

遼は、目を閉じた。三年ぶりに、よく眠れそうな気がした。

彼の夜は、まだ、続いていく。でも、それは、もう、ひとりぼっちの夜では、なかった。

(最終話 了)


――朔間遼が「師匠」と呼ぶその男が、いったい何者で、何を探し、そして何から目を逸らし続けていたのか。

その物語は、本編『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』で描かれます。

顔を持たない探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく九つの謎は、やがて、たった一つの、思いもよらない真実へと収束していきます。

遼が「いつか聞いてみたい」と思った問い――この人自身は、何を探しているのか。その答えは、本編にあります。


▶ 前の話を読む:朔間遼の夜 第五話「呼び名」


この物語は連作ミステリー『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』のスピンオフです。

朔間遼が「師匠」と呼ぶ、顔を持たないSNS探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく9つの謎と、その先に待つ真実は——本編でどうぞ。

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