朔間遼の夜 第3話「発信源」

小説『顔のない探偵へ』」

【連作ミステリー『顔のない探偵へ』スピンオフ|朔間遼の夜】第3話

※このシリーズは、顔を持たないSNS探偵を陰で支える青年・朔間遼を主人公にした短編連作です。本編を未読でもお楽しみいただけます。


その夜、濃紺の男は、めずらしく困っていた。

いつもは事実だけを短く置いていく男の投稿が、その日は少しだけ長かった。

「探し物の依頼を受けた。古い写真に写っている店の名前が知りたいが、看板の文字がつぶれて読めない。心当たりのある方がいれば」

写真が一枚、添えられていた。色あせた商店街のスナップ。隅に小さく写った喫茶店らしき看板。確かに、文字はにじんで読めない。

朔間遼は、その写真を、何の気なしに保存した。

手が、先に動いていた。仕事で使っている画像処理のツールを開く。コントラストを上げ、ノイズを除き、つぶれた階調を引き伸ばす。遼にとっては、納品前のデータをいじるのと同じ、ただの手癖だった。三分もかからなかった。

看板の文字が、うっすらと浮かび上がる。「純喫茶 あけぼの」。

それから遼は、その店名と、写真の電柱に写っていた住所表示の断片を組み合わせて、地図で照合した。古い商店街の名前まで絞り込めた。廃業しているらしいが、跡地の場所までは分かる。

ここまでやって、遼は、ふと手を止めた。

いつもなら、ここで終わりだ。自分のために調べて、自分の中で完結して、誰にも言わない。声を出さない。それが遼の生き方だった。調べた結果を、伝える相手なんて、いない。

でも、画面の向こうの男は、これを「探している」。

遼は、自分が処理した画像を見た。浮かび上がった「あけぼの」の四文字を見た。これを伝えれば、男の探し物は、たぶん一歩前に進む。伝えなければ、何も起きない。男は困ったまま、遼はまた、ミュートした夜に戻る。

返信ボタンの上で、指が止まる。

この感覚を、遼は知っていた。

昔、つきあっていた女と、初めて同じ布団に入った夜のことを、ふいに思い出す。手を伸ばせば届く距離に、彼女の肩があった。薄い肌着越しに、体温が伝わってくる。触れたかった。触れていいはずだった。なのに、遼の手は、布団の上で止まったまま動かなかった。触れた瞬間に、何かが取り返しのつかない形に変わってしまう気がして——欲しいのに、その欲しさの分だけ、手が動かない。結局その夜、遼から触れることはできなかった。彼女のほうから、笑って、遼の手を取った。

あのときと、同じだ、と遼は思う。

画面の向こうの男に「触れる」ことが、怖い。届けたいのに、届けようとする自分の指が、こわばって動かない。欲しいものほど、手が止まる。それはもう、遼の体に染みついた癖のようなものだった。誰かに近づきたいという欲求と、近づいた瞬間に壊してしまう恐れが、同じ一本の指の上で、せめぎ合っている。

三年ぶりだった。誰かに向けて、自分から何かを発信しようとするのは。心臓が、いやな速さで動き始める。あの熱だ。誰かに何かを書き込もうとするときの、あの熱。遼はそれを、ずっと恐れてきた。この熱が、かつて人を焼いた。

でも今、書こうとしているのは、人を焼く言葉じゃない。

ただの、四文字の店名だ。

遼は、震える指で、短く打った。

「看板、画像処理したら読めました。『純喫茶 あけぼの』。たぶんこの商店街です」。地図のリンクを添えた。それから、自分のアイコン——ずっとイラストのままの、顔のないアイコン——を一瞬だけ見て、送信した。

送ってしまってから、急に怖くなった。

余計なことをしたんじゃないか。気持ち悪がられるんじゃないか。三年前から止まったままの距離感で、いきなり知らない男に踏み込んで——遼はスマートフォンを伏せた。いつもの癖だ。見なければ、ないのと同じ。

十分後、通知が震えた。

伏せた画面を、遼は、なかなか表に返せなかった。返したくない。何を言われるか分からない。でも——指が、また勝手に動いた。

濃紺の男からの、返信だった。

「助かりました。自分一人では、たどり着けなかった。」

短い。そっけないくらい短い。でも、その短さが、遼には分かった。この男は、本当に必要なことしか言わない人間だ。そういう人間が「助かった」と書く。それは、たぶん、本当に助かったということだ。

遼は、その一行を、長いこと見ていた。

助かった。自分が。誰かの。役に。

声を出さずに生きてきた三年間で、誰かに「助かった」と言われたのは、初めてだった。仕事の納品では「確認しました」しか返ってこない。コンビニでは「ありがとうございました」しか言われない。それらは、遼に向けられた言葉ではなかった。誰でもよかった。

でも「自分一人ではたどり着けなかった」は、違う。

それは、遼がいたから、という意味だった。

胸の奥が、妙に熱い。さっきの、人を焼く熱とは違う。あの夜、彼女に手を取られたときの、こわばりがほどけていく感覚に、少し似ていた。もっと静かで、もっと、こそばゆい熱。遼は、それの名前を知らなかった。ずっと忘れていた感情だったから。

もう一通、男から届いた。

「また、手を借りてもいいですか。」

遼は、画面を伏せなかった。

今度は、伏せなかった。

窓の外が、うっすら白み始めている。いつのまにか、朝が近い。遼は、まだ天井の電気をつけていない。でも、モニターの青い光が、今夜は少しだけ、冷たくない気がした。

「いいですよ」。

三文字を打って、送る。

それだけのことが、遼にとっては、三年ぶりに自分から世界に差し出した、小さな手だった。

(第三話 了)


▶ 前の話を読む:朔間遼の夜 第二話「既読」


この物語は連作ミステリー『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』のスピンオフです。

朔間遼が「師匠」と呼ぶ、顔を持たないSNS探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく9つの謎と、その先に待つ真実は——本編でどうぞ。

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