朔間遼の夜 第2話「既読」

小説『顔のない探偵へ』」

【連作ミステリー『顔のない探偵へ』スピンオフ|朔間遼の夜】第2話

※このシリーズは、顔を持たないSNS探偵を陰で支える青年・朔間遼を主人公にした短編連作です。本編を未読でもお楽しみいただけます。


フォローしてから、三日が過ぎた。

朔間遼は、あの濃紺のアイコンの男に、まだ一言も声をかけていない。ただ、見ている。男は数日に一度、短い投稿をする。事件の解決を報告するわけでもない。誰かの落とし物が見つかった話。古いアパートの取り壊しを惜しむ老人の話。返してもらえなかった金の話。どれも、解決したともしないとも書かれていない。途中で終わる。

遼はそれを、仕事の合間に読んだ。

遼の仕事は、在宅のデータ入力と、たまに来る簡単なコーディングの請負だった。顔を合わせなくていい。声を出さなくていい。納品はファイルを送るだけ。誰とも、何も交わさずに金になる。三年前、会社を辞めてから、ずっとこのやり方で生きている。

辞めた理由を、遼は人に言ったことがない。

正確には、言う相手がいない。

昼すぎに起きて、夜中に働く。コンビニには日付が変わってから行く。レジの店員とも、目を合わせない。「袋いりません」を言うために口を開くのが、一日で唯一の発声だという日もある。声が、錆びていく感覚がある。たまに独り言を言うと、自分の声が他人のもののように聞こえて、ぞっとする。

母から、また着信があった。

画面に「お母さん」と表示される。遼はそれを、裏返しに伏せた。ミュートにしているのは通知だけで、着信そのものは止めていない。止めてしまえば、本当に切れてしまう気がして、できない。鳴るたびに伏せる。伏せて、鳴り終わるのを待つ。留守電は、聞かない。聞かないけれど、消さない。三十一件、溜まっている。

深夜のコンビニで、レジの女が新しい人に変わっていた。

二十代の半ばくらいだろうか。前髪を留めたピンが、蛍光灯の下で光っていた。遼の弁当を温めるあいだ、彼女は小さく鼻歌を歌っていた。何の歌かは分からない。ただ、その無防備な横顔を、遼は必要以上に長く見てしまった。彼女がふと顔を上げる。目が合う。遼はとっさに、財布に視線を落とした。「温め、できました」。それだけの声が、やけに耳に残った。

帰り道、その声を反芻している自分に気づいて、遼は少し笑った。情けなかった。三十秒の他人の鼻歌を、家まで持って帰ってくる男。誰かに触れたい、というより、誰かの体温が同じ部屋にある状態を、もうずいぶん長く忘れている。欲しいのが体なのか、ただの気配なのか、自分でも区別がつかなくなっていた。

布団に入って、暗い天井を見上げる。

昔、つきあっていた女がいた。会社にいた頃だ。彼女は遼の早口を「聞いてて楽しい」と言ってくれた数少ない人間だった。別れたのは、遼が会社を辞めたあとだ。理由らしい理由はない。遼が連絡を返さなくなって、それで自然に消えた。彼女のアカウントは、まだ消していない。たまに開く。新しい恋人らしき男と写った写真が増えていく。それを見て、胸の奥が湿るのを、遼は罰のように受け止めていた。会いたいわけじゃない。ただ、自分が誰かにとっての「楽しい」だった時間が、確かにあったことを、確認したいだけだった。

あの探偵の男も、こういう夜を過ごしているんだろうか、と遼は思った。

投稿の端々から、男の生活が滲んでいた。配達のバイク。深夜のコンビニ。誰かの夕飯を運ぶ仕事。たぶん、若くない。たぶん、一人だ。文章の組み立て方が、遼の父親の世代の几帳面さを持っている。なのに、SNSの使い方だけは妙に堂に入っていて、その不釣り合いが、遼には少し可笑しかった。

可笑しくて——少しだけ、羨ましかった。

男は、知らない誰かの「なくしたもの」に、いちいち手を伸ばしている。見返りもなさそうなのに。遼にはそれができない。自分のことすら、伏せて、鳴り終わるのを待つだけの男に。コンビニの店員の声ひとつ、持ち帰ることしかできない男に。

三年前のことを、遼はまだ夢に見る。

あの頃、遼はある炎上に加担した。詳しいことは、もう自分でも順序立てて思い出せない。ただ、誰かが叩かれていて、その叩き方が下手だと思って、遼は「もっと効く言い方」を書き込んだ。たくさんの「いいね」がついた。心臓が、熱くなった。あの熱を、遼は今でも覚えている。覚えているから、怖い。自分があれを「気持ちいい」と感じたことが。

その相手が、どうなったか。

遼は知らない。知ろうとして、できなかった。アカウントは消えていた。それ以上は、踏み込めなかった。踏み込んだら、自分が何をしたのか、正確に分かってしまう。分かってしまったら、たぶん、立っていられない。

だから遼は、声を出さない生き方を選んだ。

誰も傷つけないために。もう二度と、あの熱を感じないために。発信しなければ、燃やすこともない。誰とも近づかなければ、女の一人も、傷つけずに済む。ミュートした世界の中で、息をひそめて、ただ時間をやり過ごす。それが贖罪だと、自分に言い聞かせて。

でも、と遼は思う。

画面の中で、濃紺の男が、また誰かの落とし物を探している。声を出して。手を伸ばして。傷つけるかもしれないリスクごと、引き受けて。

息をひそめることは、本当に、誰かのためになっているんだろうか。

それとも、ただ自分が傷つきたくないだけ、なのか。

遼は、男の最新の投稿を、もう一度開いた。

「探しているものは、たいてい、なくしたと思っている場所にはない」

たった一行。誰に宛てたわけでもない、独り言のような投稿。なのに、遼の指が止まった。

なくしたと思っている場所には、ない。

遼は、伏せたままのスマートフォンを、そっと表に返した。「お母さん」の不在着信が、画面に並んでいる。三十一件。その下に、もう何ヶ月も開いていない、昔の彼女のアカウントへのリンクが、履歴の底に沈んでいる。

どちらにも、触れられなかった。今夜も、触れられなかった。

でも、画面を伏せはしなかった。光る画面を、遼は長いこと、見ていた。それだけが、三日前にフォローボタンを押した夜から、少しだけ変わったことだった。

モニターの光が、相変わらず部屋を青く照らしている。

遼は、その探偵に、まだ何も言わない。

言えるだけの言葉を、まだ自分が持っていない気がした。

(第二話 了)


この物語は連作ミステリー『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』のスピンオフです。

朔間遼が「師匠」と呼ぶ、顔を持たないSNS探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく9つの謎と、その先に待つ真実は——本編でどうぞ。

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