【連作ミステリー『顔のない探偵へ』スピンオフ|朔間遼の夜】第1話
※このシリーズは、顔を持たないSNS探偵を陰で支える青年・朔間遼を主人公にした短編連作です。本編を未読でもお楽しみいただけます。
午前二時の部屋は、モニターの光だけで足りる。
朔間遼は天井の電気をもう何ヶ月もつけていない。つけると、部屋の散らかり具合が見えてしまう。見えなければ、ないのと同じだ。コンビニの袋が三つ、床で潰れている。そのうちの一つから、飲みかけのコーヒーの匂いがする。
画面の中では、誰かが誰かを殴っていた。言葉で。
「こいつ、前にも炎上してたよな」
「謝罪文が他人事すぎる」
「人としてどうかと思う」
遼はそのスレッドをスクロールする手を、途中で止めた。流れていくリプライの速度に、心臓の奥がざわつく。速い。速すぎる。一人が燃やし始めると、十人が薪をくべて、百人が遠巻きに眺める。誰も火を消そうとしない。消す係なんて、最初からいない。
昔、自分もこの速度の中にいた。
くべる側で。
遼は缶を持ち上げて、空なのに口をつけた。何も出てこない。当たり前だ。三十分前に飲み干したのを、忘れている。最近、こういうことが増えた。時間が、つるつるして手につかない。
あの頃、自分が燃やした相手が、今どうしているのか。遼は知らない。知ろうとして、一度だけ検索したことがある。アカウントは消えていた。消えたのか、消されたのか、それとも——そこから先は考えないことにしている。考え始めると、午前二時が午前四時になり、朝になり、また天井の電気をつけられなくなる。
ミュート、という機能がある。
相手の声を、自分にだけ届かなくする。ブロックと違って、相手には伝わらない。静かに、一方的に、世界の音量を下げる。遼はそれを、人間関係そのものに使っている気がした。母からの着信も、昔の友人のメッセージも、全部ミュート。届いていないわけじゃない。聞こえないことにしているだけだ。
ふと、タイムラインに見慣れないアカウントが流れてきた。
顔写真はない。アイコンは、ただの濃紺。プロフィールには一行だけ。
「探し物を、聞いています。」
投稿は短かった。
夜の配達中に見た景色のこと。届け先のドアの前で、表札の名前を二度見た夜のこと。誰かの夕飯が冷めていく時間のこと。たったそれだけの、何の事件性もない文章。なのに、遼はスクロールの手が止まった。
文体が、奇妙だった。丁寧語と断定が混ざっている。普通なら読みにくいはずなのに、なぜか、信じられる気がした。この人は、嘘をつかない。根拠はない。ただ、そう思った。
遼はその投稿を、長いこと見ていた。火を消す係はいない、とさっき思ったばかりだ。でもこの濃紺のアイコンの男は、誰かの何かを、静かに探している。燃やすのではなく。
指が、勝手にプロフィール画面へ飛んでいた。
フォローボタンの上で、止まる。
押せば、何かが始まる気がした。押さなければ、今夜もまた、何も始まらないまま朝が来る。遼は缶を握り潰した。アルミが鈍い音を立てて、形を変える。
午前二時十四分。
遼は、ボタンを押した。
画面の向こうの男は、それに気づきもしないだろう。フォロワーが一人増えただけだ。世界は何も変わらない。
でも遼の部屋では、初めて天井を見上げる気になった。電気は、まだつけない。けれど明日は——いや、今日はもう明日だ——コンビニの袋くらいは、捨ててもいいかもしれない。
モニターの光が、散らかった床を、ほんの少しだけ照らしていた。
(第一話 了)
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朔間遼の夜 第二話「既読」
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この物語は連作ミステリー『顔のない探偵へ──倉田修二の事件帖』のスピンオフです。
朔間遼が「師匠」と呼ぶ、顔を持たないSNS探偵・倉田修二。彼が夜の街で解いていく9つの謎と、その先に待つ真実は——本編でどうぞ。


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